最寄り駅の改札を抜け、駅前の騒がしさを背にする。 20代の頃の帰路は、もっと騒々しかったはずだ。イヤホンからは大音量の音楽が流れ、手元のスマートフォンでは誰かと絶え間なく言葉を交わしていた。街の灯りや行き交う人々の気配は、自分を刺激する情報の断片であり、家に着くその瞬間まで「社会の一部としての自分」を維持し続けていた。
35歳を過ぎると、帰宅前の数分が「無所属」になる
しかし、35歳を過ぎたあたりから、駅からの数分間の景色が変わる。 一歩、また一歩と住宅街の暗がりに踏み込むにつれ、耳の奥で鳴っていた社会のノイズが、吸い取られるように静まっていく。それは単に周囲が静かになったからではない。自分自身の内側に張り巡らされていた、他者への警戒心や、何者かであろうとする緊張の糸が、一本ずつ緩んでいく感覚だ。
家という目的地が近づくほど、気持ちは凪いでいく。 この静けさは、明日への活力を蓄えるための休息というよりは、溜まりすぎた自分という澱(おり)を、重力に従って底の方へ沈めていく作業に近い。
帰宅途中に、仕事の役割が静かにほどける
住宅街の等間隔に並ぶ街灯の下を通るたび、私たちは目に見えない「層」を剥ぎ取っている。
一つ目の角を曲がるとき、職場で演じていた「頼れる先輩」や「有能な担当者」という役割が外れる。二つ目の角を曲がるとき、SNSで取り繕っていた「充実した個人」という輪郭がぼやけていく。 35歳前後の私たちは、いつの間にか多くの役割を背負いすぎてしまった。それらは大切なアイデンティティではあるけれど、同時に、常に自分を「外側」に向けて調整し続ける疲労の源でもある。
誰にも見られていない。誰の期待にも応えなくていい。 その絶対的な保証が約束された場所へ向かう道すがら、私たちはようやく、自分自身の重さをそのまま引き受けることができる。 スイッチを急に切り替えるような動作ではなく、もっとゆっくりと、水の中にインクが溶けていくような、不可逆で静かなグラデーションだ。
帰宅中にスマートフォンを見ない、空白の価値
35歳前後になると、帰宅中にスマートフォンを見ない時間が増える人もいる。 以前は、歩きながらスマホを見ない時間は「空白」でしかなかった。けれど今は、その空白こそが、自分を正常な位置に戻すために不可欠な時間となっている。
画面を光らせれば、そこには再び「外の世界」が広がっている。誰かの成功、誰かの怒り、解決すべき課題。それらを引き寄せる指を止め、あえてスマホをポケットの奥深くに沈める。 手に触れるスマートフォンの冷たい感触が、今自分が「どこにも属していない瞬間」にいることを、逆説的に教えてくれる。
このとき、何を考えているかを言葉にする必要は感じていない。 流れる雲の形や、誰かの家から漏れ聞こえるテレビの音。そうした意味を持たない断片をただ受け取っているだけで、脳内の解像度が少しずつ下がっていく。 その解像度の低さこそが、今の自分には心地よい。情報の密度が薄くなるほど、自分の純度が上がっていくような、奇妙な感覚。
家に入る前だけ、どこにも属していない
自宅のマンションの入り口が見えてくる。 そこまで来ると、もう「静かさ」は飽和状態に達している。
かつてはこの場所に辿り着くのが待ち遠しくて、足を早めていた。今は、あえてその数歩手前で歩幅を緩めてしまうことがある。 家の中に入れば、そこにはまた別の役割が待っているかもしれない。家事、育児、あるいは家族としての振る舞い。だからこそ、玄関の扉を開ける直前の、この「道の上」にだけ存在する、完全に無色透明な自分が愛おしくなる。
この感覚を、誰かに説明するのは難しい。 「一人になりたい」という孤独への欲求とも違うし、「帰りたくない」という拒絶とも違う。ただ、社会からも家庭からも切り離された、中空に浮かんでいるような自分を確認しているだけなのだ。 35歳を過ぎて、私たちは「自分だけの時間」の確保がいかに困難かを知ってしまった。だからこそ、この数分間の移動に、一種の静粛さを求めてしまう。
閉じない静寂を抱えて歩く
カバンの中から、鍵を取り出す。 金属が触れ合う小さな音が、静寂の終わりを告げる。
20代の頃、この音は「自由」の合図だった。 今の自分にとって、この音は「帰還」の合図だ。 静かになりきった気持ちを抱えたまま、ゆっくりと扉を開ける。
説明のつかない、帰路での静止。 それは、私たちが壊れないように、社会という荒野から自分という小さな種を回収するための、生存本能に近い儀式なのだろう。
部屋の明かりを点ける前に、一度だけ深く息を吐く。 その吐息と一緒に、最後に残っていた外気の匂いが消えていく。 静かになった自分を、そのまま部屋の暗がりに置いて、また明日という時間が動き出すのを待つ。

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