朝のニュースフィードに流れてくる、政治の不祥事や社会の不条理。それらに対して「おかしい」と声を上げること、あるいは怒りを共有することは、かつてはもっと身近で、義務に近い感覚を伴っていたはずだ。20代の頃の怒りは、自分と社会が地続きであるという実感に支えられていた。不条理を許さないという姿勢が、自分のアイデンティティの一部を形作っていたとも言える。
正論の熱量と、指先の温度差
しかし、35歳という地点で同じようなニュースに触れたとき、心の中に立ち上がるのはかつての激しい炎ではなく、どこか遠くで鳴っているサイレンのような、乾いた響きであることが多い。怒っていないわけではないし、肯定しているわけでもない。ただ、その感情を言葉にする前に、今日こなさなければならない業務や、家族との調整事項が、波のように押し寄せてその熱を奪っていく。
社会という巨大な存在と、向き合いきれなくなる断面
かつては社会問題に対して「賛成か反対か」の二択を迫られることに、ある種の快感を覚えていた時期があった。立場を明確にすることが、世界に参画している証拠だったからだ。しかし、35歳前後の今、その二択の枠組み自体が、どこか自分を疲れさせるものに変わりつつある。社会の歪みを正したいという願いと、自分の生活を破綻させずに維持したいという本能。その二つのあいだに、かつてはなかった深い溝が横たわっている。
この変化は、20代の頃に持っていた「世界は変えられる」という全能感が、より現実的で重みのある「日々の継続」に置き換わった結果とも言える。社会への怒りを表明し続けるには、相応のコストがかかる。そのコストを払う余裕が、生活の細部を埋める責任感によって、少しずつ削り取られていく。怒りが消えたのではなく、怒りを維持するためのスペースが、生活という名の地味で切実な営みによって占拠されている状態だ。
正しさと生活のあいだで、判断を保留にする
社会との関係が「二択」で整理できなくなると、私たちはしばしば「保留」という態度を選ぶようになる。ニュースを読み飛ばすわけではないが、かといって深く掘り下げることもしない。SNSで流れてくる議論に対しても、賛同のボタンを押す前に一度指を止めてしまう。そこには、自分の放つ言葉が社会をどう変えるかという期待よりも、言葉を発することで失われる自分の静寂への危惧がある。
この「保留」は、断捨離のように人間関係や情報を整理することとは違う。切ることも、残すことも決めないまま、ただ流れてくる不条理を眺め続ける。社会との接点が、熱いコミットメントから、薄い幕を隔てた「観測」へと変容していく。それは社会に対する裏切りではなく、自分というリソースを守りながら、それでも世界と繋がり続けるための、35歳なりの妥協点なのかもしれない。関係が切れたわけではなく、ただ、形が変形してしまったのだ。
怒りの不在がもたらす、曖昧な許容
怒りが薄まることは、一見すると倫理的な後退に見えるかもしれない。しかし、その曖昧な保留状態の中にこそ、新しい社会との関わり方が隠れているようにも思う。20代の鋭い正義感は、時に自分とは違う立場の人を激しく拒絶する刃にもなった。35歳を過ぎ、生活の忙しさに揉まれる中で手に入れた「怒りきれない自分」は、皮肉にも、正解のない社会の複雑さをそのまま受け入れるための緩衝材として機能している。
かつてのようにデモに参加したり、激しい議論を戦わせたりすることはない。それでも、選挙には静かに行き、生活の圏内でできる小さな配慮を積み重ねる。大きな物語に対する怒りが薄まった分、自分の手の届く範囲にある小さな関係性を守ることに、エネルギーを転換させていく。社会との距離が遠くなったのではなく、関わり方の重心が、高所からの批判から、足元の持続へと移動しているのだ。その変化の断面は、外側からは単なる「忙しさ」に見えるだろう。
静寂の中に、社会の音を置いておく
結局のところ、社会問題への怒りが生活に薄められていく過程を、私たちは止めることができない。それは、私たちが「生活」という名の責任ある役割を、引き受けてしまったことの証左でもある。忙しさの中でニュースを閉じ、一息つく瞬間に訪れる静寂。その中に、かつて持っていたはずの青い怒りを、整理せず、捨てず、ただ置いておく。
解決を急がず、社会との距離が以前と変わってしまったことを、そのまま認めてみる。今の自分には、世界を背負いきるだけの肩の強さはないかもしれない。けれど、生活を回し続けるその手つきの中に、微かな祈りのようなものが混ざっている。その曖昧な関係性のまま、明日もまた社会の一員として、静かに目を覚ます。

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