広告の中に出てくる
「大人」の姿がある。
落ち着いた服。
余裕のある表情。
整った部屋。
少し高めの家具。
静かな朝。
手間をかけた時間。
そういう画面を見るたびに、
違和感まではいかないが、
少し引っかかることがある。
そこにいる人物は、
たしかに大人として描かれている。
けれど、
その輪郭がどこか
自分の親の世代に近い。
自分が年齢として近づいているはずなのに、
そこへ自分が重ならない。
昔は“少し先の未来”として見ていた
20代の頃は、
そういう広告を少し先のものとして見ていた。
まだ自分には遠いが、
年齢を重ねれば
自然にそこへ近づく気がしていた。
暮らしが整う。
物が少なくなる。
選ぶものに迷わなくなる。
そういう流れを
漠然と想像していた。
けれど実際に近づくと、
その風景は思ったより来ない。
部屋は整いきらない日もある。
物の選び方も
まだ揺れる。
時間の使い方も
広告ほど静かではない。
描かれている余裕が少し別の時代に見える
広告の中では、
大人は迷っていない。
選び方が定まっていて、
動きも静かだ。
表情も落ち着いている。
その安定感が、
少し前の理想に見える。
親の世代が
大人として求められていた輪郭。
家を整え、
生活を整え、
落ち着いて見えること。
そこに価値が置かれている。
今も否定されていない。
ただ、
自分たちの現実とは
少し重なり方が違う。
同じ年齢でも生活の輪郭が揃わない
年齢だけ見れば、
広告の人物に近い。
けれど、
生活の手触りは違う。
部屋の広さ。
働き方。
時間の切れ方。
一つに揃わない。
同じ年代でも
形がかなり違う。
だから、
広告が一つの理想を置くと
少し古く見えることがある。
自分が未熟というより、
前提そのものが少し違う。
それでも広告は“完成した大人”を置き続ける
途中の姿はあまり出てこない。
迷いながら整えている感じより、
もう整った姿が置かれる。
そのほうが
見せやすいのかもしれない。
分かりやすいのかもしれない。
でも、
そこにいる大人像が
自分の今より少し上ではなく、
一世代前に見えることがある。
親の世代に近いのに、親そのものでもない
懐かしいわけではない。
古いとも言い切れない。
ただ、
見たことのある
“大人の完成形”に近い。
親が働いていた頃に
広告で見ていたような空気。
落ち着き。
整理。
余白。
そのまま少し残っている。
自分はまだその途中にいる感じが消えない
年齢は進んでいる。
けれど、
広告の中のように
何かが定まった感じはまだ薄い。
それでも日々は進む。
だからこそ、
広告の中の理想が
どこか止まって見える。
自分が遅れているのではなく、
示される完成形の時間だけが
少し前にあるように見える。

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