プレゼン資料の「見栄え」にこだわる自分を、冷めて見る

プレゼン資料は、
内容が伝わればいい。

本来はそういうものだと思っている。

何を伝えるか。
どこを整理するか。
相手が理解しやすい順番か。

そこが中心なのは変わらない。

けれど実際には、
最後の段階で少し止まることがある。

余白をそろえる。
文字の位置を合わせる。
色の強さを一段落とす。

一枚ごとの印象が気になる。

その作業をしている自分を、
同時に少し引いて見ている。

そこまで整えなくても
意味は変わらないと分かっている。

それでも、
手が止まらない。

目次

内容より前に“見え方”を整える時間が残る

数字は入っている。

言いたいこともまとまっている。

構成も大きく崩れていない。

一度通して見れば、
もう十分とも言える。

それでも最後に、
一枚ずつ戻る。

見出しの位置。
箇条書きの幅。
図の余白。

少し右へずらす。
一行減らす。
色を一色減らす。

以前は、
ここまで気にせず出していたこともある。

間に合えばよかった。

伝わればよかった。

今は、
伝わるかどうかと別に
“どう見えるか”が残る。

直しても評価が変わらないと分かっている

この一行を詰めても、
大きく評価は変わらない。

色を薄くしても、
内容の強さは変わらない。

そのことは分かっている。

会議の場では
一瞬しか映らないかもしれない。

相手はそこまで見ていないかもしれない。

それでも、
直す。

しかも直しながら、
少し冷めている。

なぜここを触っているのか、
自分でも説明しきれない。

必要以上かもしれない。

でもその必要以上が
最後に残る。

若い頃の“盛る”とは少し違う

20代の頃も、
資料に力を入れることはあった。

目立つ色を使う。
図を増やす。
動きをつける。

伝えたい気持ちが
前へ出ていた。

今は少し違う。

目立たせるより、
引っかからなくする。

強く見せるより、
余計な違和感を減らす。

整える方向が変わる。

だからこだわっていても、
熱量は静かだ。

むしろ作業している自分に
少し距離がある。

誰のためか少し曖昧な調整が残る

相手のためとも言える。

見やすいほうがいい。

たしかにそうだ。

でも、
それだけでもない。

自分が気になる。

揃っていないと、
次へ進みにくい。

発表前に
その一点だけ戻る。

フォントサイズ。
線の太さ。
改行位置。

誰にも指摘されないかもしれない部分に
時間が残る。

終わったあと、そこは覚えられていない

実際に話し終わると、
どこを直したかはもう残らない。

相手もそこには触れない。

質問は内容に来る。

議論も中身で進む。

だから余計に、
あの数分は何だったのかと思う。

でも次もまたやる。

同じように
最後の余白を見る。

見栄えを整えるのは熱意でも義務でもない

評価を上げたいだけでもない。

手を抜けないというほどでもない。

ただ、
整っていない部分が
最後に少し残る。

その残りを消してから出す。

そしてその自分を、
少し冷めたまま見ている。

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この記事を書いた人

35歳以降の言葉になりにくい感覚を記録しています。
人と時間のあいだに残るものを観察しながら、別の形の対話もつくっています。

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