スーパーで買うものが、毎回少しだけ固定される理由

自動ドアを抜け、カゴを手にする。 20代の頃のスーパーマーケットは、もっと未知の可能性に満ちた場所だったはずだ。入り口の特売品に目を奪われ、普段は行かないスパイスの棚を眺め、見たことのない輸入食品を手に取ってみる。カゴの中身はその日の気分によって形を変え、帰宅後のキッチンには常に小さな「実験」が待っていた。

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広い店内のなかで、歩くルートが決まってくる

しかし、35歳を過ぎたあたりから、店内の歩き方が少しずつ固定され始める。 野菜、肉、乳製品、日用品。最短距離で必要なものだけを拾い上げ、確実なものだけをカゴに収めていく。かつてのような「何か面白いものはないか」という探索の視線は影を潜め、いかにして滞在時間を短縮し、失敗のない買い物をするかという、静かな効率化が優先されるようになる。

買うものが固定されるのは、決して食への関心が薄れたからではない。むしろ、今の自分の生活を滞りなく回すために、最も信頼できる「レギュラーメンバー」を揃えるという、切実な防衛本能に近い。

「失敗したくない」という重みが、好奇心を追い越す

なぜ、これほどまでに同じものばかりを選んでしまうのか。 35歳前後になると、新しい食材に挑戦することに伴う「コスト」を、以前よりもずっと重く見積もるようになる。

使い方がわからない野菜を買えば、その調理法を調べる手間が発生する。口に合わなかったときの落胆は、一日の終わりの貴重な食事の時間を台無しにする。20代の頃のような無限のやり直しがきく感覚があれば、それらは些細な冒険として処理できた。けれど今の私たちは、予定調和な「いつもの味」がもたらす平穏を、何よりも優先しようとする。

カゴの中のいつもの豆腐、いつものドレッシング。それらは、今の自分を裏切らないことが保証された、数少ない味方なのだ。情報の解像度が上がってしまった分、私たちは「新商品」という言葉の裏にある不確実さを、過剰に察知して避けているのかもしれない。

献立を考える「脳の余白」を温存するための、固定化

スーパーの棚の前で、何を作ろうかと考え込む時間が短くなっていく。

以前は、並んでいる食材を見てからインスピレーションを得ることもあった。けれど今の私たちは、スーパーに来る前に、あるいは店に入った瞬間に、すでに「いつもの正解」を脳内に描いている。 仕事や役割で使い果たした脳のリソースを、これ以上「献立の決定」という作業に割きたくない。だからこそ、指先は勝手に、前もって決めておいた、あるいは習慣化された食材へと伸びていく。

それは「怠慢」ではなく、自分自身のエネルギーを温存するための、高度な自己管理の一種でもある。 毎日違うものを作らなければならない、という強迫観念から自由になり、自分を安心させるためのルーティンを繰り返す。その単調な繰り返しこそが、今の自分を最も深く支えていることに、私たちは薄々気づき始めている。

「一巡した」という感覚が、選別を静かに促す

私たちは、一通りの「珍しいもの」や「流行りの味」を、すでに出尽くしたと感じているのかもしれない。

かつては好奇心を刺激された異国の調味料も、結局使い切れずに冷蔵庫の奥で眠らせた経験がある。話題の惣菜も、一度食べれば「こんなものか」という納得で終わってしまうことを知っている。 経験が積み重なった結果、私たちは自分にとって本当に必要なものの「最小単位」を見極めてしまった。

カゴの中身が似通ってくるのは、世界が狭まったからではなく、自分に似合うものがはっきりと見えてきた結果だ。 華やかさはないけれど、確かな満足をくれるもの。その選別作業は、派手な変化を求める20代の視点からは「老化」に見えるだろう。けれど、その澱(おり)のないカゴの中身こそが、生身の時間を生き抜いてきた私たちの、リアルな輪郭なのだろう。

変わらないカゴの中身を、そのまま受け入れる

レジを済ませ、袋にいつもの品々を詰める。 重い袋を手に提げて歩き出すとき、ふと、自分の生活がどこまでも均一になっていくような、奇妙な寂しさと安堵が混ざり合う。

明日も、来週も、おそらく自分は同じ棚の前で、同じものを手に取るだろう。 けれど、その繰り返しこそが、明日を生きるためのリズムを整えてくれる。 特別な発見はなくても、裏切られることのない日常。 私たちは、また次の買い物でも、いつものルートを辿り、いつもの正解を選び取る。 その不器用で、しかし嘘のない生活の集積を、そのままの重さで引き受けていく。

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この記事を書いた人

35歳以降の言葉になりにくい感覚を記録しています。
人と時間のあいだに残るものを観察しながら、別の形の対話もつくっています。

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