終電に間に合ったのに、安堵しない夜

少し走って、
ぎりぎりで間に合う。

ドアが閉まる前に乗る。

席はなくてもいい。

とにかく帰れる。

以前なら、
その瞬間に少しだけ安心していた。

間に合った。

助かった。

それだけで気持ちが一段落した。

でも、
同じように間に合っても
なぜか安堵しない夜がある。

目次

間に合ったこと自体は、ちゃんと助かっている

次を考えなくていい。

タクシーにもならない。

乗り換えも崩れない。

現実としては十分に助かっている。

条件は整っている。

だから本来なら、
そこで一区切りついていい。

でも、
気持ちがそこに追いつかない。

電車に乗ったあとも、少し落ち着かない

息が整う。

スマホを見る。

車内は静か。

やることはない。

それなのに、
まだ少し何かが終わっていない感じが残る。

今日が片づいた感じにならない。

帰れることと、
落ち着くことが別になる。

前は「間に合う」がそのまま救いだった

若いころは、
終電に間に合うこと自体に
わかりやすい達成感があった。

間に合った自分。

助かった夜。

少し笑える感じすらあった。

多少遅くても、
それも一日の延長だった。

今は、その前後まで一緒に残る

疲れ。

会話。

仕事。

空気。

何に急いでいたかまで
そのまま車内に持ち込まれる。

だから
電車に乗れたことで
全部が切り替わらない。

移動は始まっているのに、
気持ちはまだ前にいる。

帰れることと、ほどけることは別になる

ちゃんと帰れる。

予定通り着く。

それでも
安心に変わらない夜がある。

問題は起きていない。

でも、
安堵だけが来ない。

たぶん、間に合うだけでは切り替わらなくなる

何かを終えたあと、
昔より少し余韻が残る。

出来事が終わっても、
感情だけ少し遅れる。

終電に間に合ったのに、
なぜかそれで十分と思えない。

そういう夜が
前より少し増える。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

35歳以降の言葉になりにくい感覚を記録しています。
人と時間のあいだに残るものを観察しながら、別の形の対話もつくっています。

コメント

コメントする

目次