電車が混み始め、流されるように優先席の前に立つ。 20代の頃、この場所はもっと記号的で、明快な場所だった。座れない場所、あるいは誰かが来ればすぐに動く場所。自分の若さは疑いようのない事実であり、その場所における振る舞いにも迷いはなかった。
しかし、35歳を過ぎたあたりから、このわずか数十センチの空間に、説明のつかない居心地の悪さが混ざり始める。 目の前に座っている人と、自分。そして周囲の視線。 自分が「若者」というカテゴリーから緩やかに外れ始めていることに気づいているからこそ、この場所に立っている自分の佇まいが、どのような文脈で受け取られているのかが気になってしまうのだ。
スマホを操作する指を止めるべきか、あるいはあえて無関心を装って窓の外を見るべきか。 正解のポーズが見つからないまま、電車は次の駅へと加速していく。
属性の境界線で、揺れている
なぜ、これほどまでに自意識が波立ってしまうのか。 それはおそらく、私たちが社会的な「中堅」という、どちら側にも属さない曖昧な座標に置かれ始めているからだろう。
かつては「譲る側」として全うできていた役割が、経験を重ねるうちに、少しずつ変容していく。仕事での疲れが抜けにくくなり、足腰に微かな重みを感じる日もある。一方で、公的な配慮を必要とするほどではないという自負もある。 その「どちらでもなさ」が、優先席の前という象徴的な場所で、不意に露呈してしまう。
鏡のようなドアのガラスに映る自分は、思っているよりもずっと「大人」の顔をしていて、同時にどこか疲弊しているようにも見える。 この姿でここに立っていることは、周囲にどう映っているのだろうか。 情報の解像度が上がってしまった分、私たちは自分を客観視しすぎてしまい、ただ「そこに立つ」という単純な動作に、過剰なまでの意味を付着させてしまう。
正解のない、数分間の沈黙
周囲の人間から見れば、それは「ただ立っている人」に過ぎない。 しかし、35歳を過ぎた私たちの内側では、公共空間における自分の属性を点検するような、静かな作業が行われている。
自分はもう、無邪気に「若者」として振る舞うことはできない。 けれど、完全に「配慮する側」として安定した精神を保つには、まだ自分の生活を維持することで手一杯だったりもする。 その不全感を知っているからこそ、優先席の前に立ったとき、私たちは言葉にならない距離感の調整を繰り返してしまう。
スマホの画面を暗くし、少しだけ姿勢を正してみる。 それはマナーというよりも、自分という存在をその場にどう「置いておくか」という、自分なりの折り合いの付け方なのだと思う。
閉じない居心地の悪さを抱えて
次の駅に到着し、ドアが開く。 乗客の入れ替わりとともに、足元の空間が少しだけ広がり、あの微妙な距離感も一時的に解消される。
かつてのような身軽な移動には、もう戻れないのかもしれない。 どこに立って、何を考え、どう見られるか。 そうした自意識のノイズが増えることは、それだけ自分が社会という網目の中に、深く組み込まれてきた証拠でもある。
説明のつかない、優先席の前での停滞。 それは、私たちが「何者でもない自分」から、否応なしに「特定の役割を持った大人」へと移行していく過程で、何度も通り過ぎなければならない通過儀礼のようなものなのだろう。
駅のアナウンスが流れる中、再び前を見据える。 その居心地の悪さを、解決すべき問題としてではなく、今の自分の現在地として、ただそのまま抱えて歩き出していく。

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