返信していない相手を、嫌いになったわけではない

スマートフォンの画面に浮かぶ、数日前の通知。 送り主は、決して疎遠にしたい相手ではない。かつて共に時間を過ごし、今でもその活躍を願っているし、機会があればまた会いたいとすら思っている。

しかし、指が動かない。 20代の頃の自分なら、こんな状況は考えられなかった。返信とは、飛んできたボールを投げ返すような、反射に近い動作だったからだ。「了解」「また今度」といった短い言葉を繋ぎ合わせるだけで、関係の糸はピンと張られ、それが安心感に直結していた。

35歳を過ぎたあたりから、その糸の張り方が分からなくなってくる。 相手への好意は確かにそこにあるのに、いざ返信しようとすると、今の自分の生活の質感や、相手との間に流れる静かな時間の乖離が、見えない壁となって立ちはだかる。

返していないという事実は、客観的に見れば「不誠実」や「拒絶」に分類されるだろう。けれど、私たちの内側で起きているのは、それらとは全く別の、もっと曖昧で、名付けようのない変化だ。

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距離を取っているのに、関係が切れたとは言えないとき

なぜ、好きな相手に対して沈黙を選んでしまうのか。 それはおそらく、私たちが「人間関係を維持すること」に伴うコストを、かつてよりずっと重く見積もるようになったからかもしれない。

今の私たちは、一言の返信の背後に、その後のラリーや、近況報告、あるいは具体的な約束といった「地続きの未来」が控えていることを知っている。 かつてのように無邪気に未来を約束し、その場限りの言葉を投げ合うには、私たちは多くのものを見すぎ、引き受ける責任も増えてしまった。

「嫌い」だから返さないのではない。むしろ、相手との関係を大切に思い、今の自分の濁った状態で接したくないという、不器用な誠実さが含まれていることすらある。 「好き/嫌い」や「合う/合わない」という二択のラベルでは、この微細な心の揺れを収めることができない。

関係を一度「保留」にする。 それは、断捨離のようにバッサリと縁を切る潔さとは無縁の、ただ静かに、時間が形を変えていくのを待つような所作だ。

関係が「続いているのか終わっているのか」を保留にする

連絡を取り合っていないからといって、その関係が終わったとは限らない。 一ヶ月、あるいは一年。その沈黙の期間が、二人の関係を壊すのではなく、むしろお互いの生活を邪魔しないための「適切な空白」として機能することもある。

切るか、残すか。 その二択を迫られることに疲れ、私たちはあえて判断を保留にする。 返信していない通知を、消さずにそのまま置いておく。それは、いつかまた、自分と相手の温度が重なる瞬間が来ることを、密かに信じているからかもしれない。

特別な再開を期すわけでもなく、失敗した関係として葬るわけでもない。 ただ「今は返せていない」という状態を、そのまま置いておく。 そうした不純な、しかし嘘のないグラデーションの中に、今の私たちの人間関係は存在している。

言葉を交わさない時間が、守っているもの

数週間後、あるいは数ヶ月後。 ふとした拍子に指が動き、何事もなかったかのように返信を送る日が来るかもしれない。あるいは、そのまま通知は埋もれていくのかもしれない。

どちらになったとしても、今のこの「返せていない沈黙」を、自分自身で責めすぎる必要はないのだろう。 沈黙している間、私たちは相手を拒絶しているのではなく、自分自身の生活を維持し、再び他者と向き合えるだけの余力を蓄えている。

切らないことも、選ばないことも、そのまま置かれていていい。 説明しづらい沈黙のあとに、再び結ばれる縁もあれば、静かに解けていく縁もある。

返信のない画面を閉じて、今日という時間を過ごす。 その不器用な空白が、かつての瞬発力よりも、今の自分を深く支えている事実に、私たちはまだ、気づかないままでいい。

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この記事を書いた人

35歳以降の言葉になりにくい感覚を記録しています。
人と時間のあいだに残るものを観察しながら、別の形の対話もつくっています。

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