休日の朝、特に何の予定もない日ほど、クローゼットの前で過ごす時間が長くなってしまう。
20代の頃の休日は、もっと明確だった。 どこへ行くか、誰と会うか。その目的に合わせて服を手に取っていた。 誰かに見られる自分を想定し、期待感と一緒に袖を通す。服を選ぶ時間は、外の世界へと接続するための、迷いのない通過点だった。
しかし、35歳を過ぎたあたりから、そのリズムが不意に乱れる。 誰に見せるわけでもない、近所のコンビニや公園へ行くだけの外出。 それなのに、手に取ったスウェットの膝の出方が気になったり、かといってシャツを羽織るには大袈裟すぎる気がしたりして、何度も着替えては鏡の前で立ち止まってしまう。
何を着れば自分が落ち着くのかが、すぐには決まらない。 ただそこに立っているだけの数分間が、以前よりも重く感じられる。
鏡の中の自分と、折り合いがつかない
何かを着る気にならない一方で、何でもいいわけでもない。 以前なら気にならなかったはずの「適当さ」が、ある時期を境に、どこか自分に嘘をついているような微かな不快感を伴うようになる。
かといって、20代の頃のように無理をして着飾ることも、今の気分とはどこか食い違う。 自分を良く見せたいという欲求が薄れた代わりに、鏡に映る自分をどう眺めればいいのか、その距離感が分からなくなっている。
鏡に映るのは、生活の質感が滲み始めた、等身大の自分だ。 その輪郭に対して、どの服なら馴染むのか。 情報の解像度が上がってしまった分、かえって決定打を欠いたまま、時間だけが過ぎていく。
誰とも繋がらない時間だからこそ、自分という存在の扱い方に、過剰に慎重になってしまうのかもしれない。
正解のない、数分間の沈黙
周囲の人間から見れば、それは「早く決めればいいのに」と思われるような、無駄な時間に映るだろう。 しかし、35歳を過ぎた私たちのクローゼットの前での葛藤は、実は自分自身の現状を確かめる作業でもある。
納得のいかない格好で外へ出た時の、あの背中がむず痒くなるような居心地の悪さを知っているからこそ、私たちはこの数分間を捨てられない。
「これでいい」と思える着地点を探して、何度も袖を通し、脱ぎ捨てる。 それは、効率的なライフスタイルからは最も遠い場所にある、ひどく不器用な自分との対話だ。
結局、いつもの一着に落ち着く
ようやく一着を選び取り、家を出る。 結局、何度も着て馴染んだ、いつもの組み合わせに落ち着くことがほとんどだ。
それでも、あの迷っていた時間は無駄ではなかったのだと思う。 迷うことで、今の自分が許容できる範囲を、静かに確かめ合っていた。
誰にも会わない休日の、説明のつかない停滞。 何でもない休日ほど、少しだけ決まりにくい日がある。
玄関を出て、外の空気に触れる。 ドアが閉まる音を聞きながら、私たちはまた、日常の続きへと歩き出していく。

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