目的地の前で、一度空っぽになる
電車に乗って、ドアが閉まる。 加速する振動が体に伝わり始めた頃、ふと手に持っていたスマートフォンをポケットにしまう瞬間がある。
20代の頃の移動時間は、もっと情報の密度が高かったはずだ。 届いたメッセージへの返信を練り、ニュースを巡回し、目的地で自分がどう振る舞うべきかの予習を繰り返す。 隙間時間は、自分を更新するためのリソースだった。何もしないで座っていることは、焦りに似た感覚を伴うものだった。
しかし、35歳を過ぎたあたりから、その「武装」が不意に途切れる。 流れる車窓の景色を追いかけるでもなく、中吊り広告の文字を追うでもない。 ただ、思考の足場がふっと外れ、頭の中が真っ白な空洞になる。 それは「ぼーっとしている」というより、脳のスイッチが一時的に、勝手にオフになるような感覚だ。
言葉を詰め込むことに、指が止まる
何かを読む気にもならない日がある。 画面を開いても、ただ指が止まる。
以前は楽しかったはずの情報収集が、ある時期を境に、微かな重みを伴うようになった。 仕事での意思決定や、誰かとの調整。 日々扱わなければならない情報の解像度が、かつてより格段に上がっているのかもしれない。
電車の振動や規則的な音に、思考を預けてしまう。 SNSのタイムラインから離れ、誰とも繋がらず、何の影響も受けない数分間。 このとき、私たちは情報を拒絶しているのではなく、ただ澱(おり)を沈殿させている。
誰の結果にもならない時間が、実は自分を支えている。 その実感を言葉にするのは難しいけれど、今の自分には、この「何もない時間」が必要なのだと思う。
止まることを、選ばされている
駅のアナウンスが聞こえ、停車に向けてブレーキがかかる。 少しずつ思考の足場が戻ってくるのを感じながら、私たちは再び、何者かの顔を作って立ち上がる。
かつてのように24時間を熱量で満たすことはできなくなった。 けれど、この電車の数分間で訪れる「凪」を知っていることは、今の生活を維持するための、一つの技術のようにも思える。
説明のつかない、思考の停止。 それは、私たちが意識的に選んだ休息というよりは、体が生き延びるために「選ばされている」時間なのだろう。
何も考えていない数分が、思ったより必要になっている。 ドアが開く少し前に、何となく思考が戻ってくる。 その不器用な空白を抱えたまま、私たちはまた、ホームへと踏み出していく。

コメント